ダイバーシティ推進功労者等表彰制度
福井大学ダイバーシティ推進功労者等表彰制度
「女性研究者学術研究奨励賞(黒田チカ賞)」について
本学では,2024年2月に策定した『福井大学におけるダイバーシティ推進に関する基本方針』の実現に向けた取組の一つとして,「女性研究者学術研究奨励賞(黒田チカ賞)」を創設します。
1.賞の目的
福井大学において,学術上優れた研究を展開するとともに,次世代のリーダーとして活躍することが期待される本学所属の女性研究者を顕彰することで,当該女性研究者及びこれに続く多くの女性研究者の励みとし,上位職や管理職への女性登用の促進につなげることを目的とします。
2.賞の命名由来
本賞は,本学の教育学部の前身である福井県師範学校女子部において教官を務めた黒田チカ博士(1884-1968)に因んでいます。
黒田博士は日本で初めて帝国大学に入学し卒業した女性理学士3名の中の一人で,女性が高等教育を受け社会で活躍することが困難であった時代に,英国留学も成すなど努力を積み重ね,化学分野の最初の女性博士として,日本の有機化学の黎明期に数々の顕著な業績を残した研究者です。
黒田博士は,時の福井県師範学校長 江尻庸一郎氏(黒田博士が佐賀師範女子部在学中の校長)から,福井にも佐賀師範のような女子部を設けたいとの熱心な招請により1906(明治39)年に教官として赴任し,学生寄宿舎の舎監も務めながら福井で一年を過ごされました。地方就職は福井が唯一の場所であり,女子部創設の意義と意気込みもあり,わずか一年の滞在であったにもかかわらず印象は格別で決して消えないと,福応会誌(福師八十年回顧記念号 S26)の寄稿文「福井の思出」で述べています。
黒田博士の足跡は後に続く女性研究者たちに大きな励ましを与え続けており,女性研究者のパイオニアとして道を切り拓き活躍した黒田博士の功績に敬意を表するとともに,博士が本学の前身校で教鞭をとっていたことをご縁に,本学の女性研究者の活躍を願って,賞の名称を「女性研究者学術研究奨励賞(黒田チカ賞)」としました。
3.黒田チカ博士の略歴
1884年(明治17年) | 3月24日 佐賀県佐賀郡松原に誕生。 |
1901年(明治34年) | 佐賀県師範学校女子部卒業。小学校に1年間勤務。 |
1902年(明治35年) | 女子高等師範学校理科入学(18歳)。 |
1906年(明治39年) | 女子高等師範学校理科卒業。福井県師範学校女子部教諭に就任。 |
1907年(明治40年) | 女子高等師範学校研究科入学(23歳)。 |
1909年(明治42年) | 女子高等師範学校研究科修了。東京女子高等師範学校助教授就任。 |
1913年(大正2年) | 東北帝国大学理科大学化学科入学。日本初の女子帝国大学生となる(29歳)。 |
1916年(大正5年) | 眞島利行教授のもとで紫根の色素の研究に着手。 7月 東北帝国大学理科大学化学科卒業。日本初の女性理学士となる(32歳)。 |
1918年(大正7年) | 9月 東京女子高等師範学校教授就任。 11月 東京化学会で紫根の色素について発表。 |
1921年(大正10年) | 英国留学(オックスフォード大学 W.H.パーキン教授に師事)。 フタロン酸誘導体を研究。 |
1923年(大正12年) | 8月 アメリカ経由で帰国。教授として女子高等師範学校に復帰。 |
1924年(大正13年) | 理化学研究所嘱託となり,紅花の色素の構造研究を開始。 |
1929年(昭和4年) | 理学博士となる(45歳)(保井コノに次ぐ2番目の女性博士)。 学位論文『紅花の色素カーサミンの構造決定』。 ツユクサの花汁,ナスの皮,クロマメの皮,シソの葉等の研究開始。 |
1936年(昭和11年) | 日本化学会より第1回眞島賞を受賞(52歳)。 |
1938年(昭和13年) | ナフトキノン誘導体に関する研究開始。 |
1939年(昭和14年) | ウニの棘の色素(ナフトキノン系)の研究開始。 |
1949年(昭和24年) | 新設されたお茶の水女子大学にて教授就任(65歳)。 タマネギの皮からケルセチンの結晶の抽出に成功。 高血圧治療剤「ケルチンC」創製(1953年に実用化,工業化)。 |
1952年(昭和27年) | お茶の水女子大学退官。同大学名誉教授(68歳)。 同大学非常勤講師(1963年まで)。 |
1959年(昭和34年) | 天然色素の有機化学的研究により,紫綬褒章受賞(75歳)。 |
1965年(昭和40年) | 勲三等宝冠章受賞(81歳)。 |
1968年(昭和43年) | 11月8日 福岡で逝去(享年84歳)。佐賀市伊勢町大運寺に墓石。 |
黒田チカ博士は,1884(明治17)年3月24日に,父平八,母トクの7人兄弟姉妹の三女として佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)で誕生した。士族出身の開明的な父は新しい時代には学問が大事と考え,男女を問わず子どもたちに高等教育を受けさせた。満5歳から小学校に入り,佐賀師範学校女子部へと進んで17歳で卒業し,一年間佐賀郡川副高等小学校の教師を務めた後,1902(明治35)年に当時の女性としての最高学府である東京の女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)に入学した。文系・理系のいずれの勉強も好きであったが,理科の実験だけは学校に通わなければできないと考えて理科に進み,化学に強く興味を持つようになった。1906(明治39)年に卒業して新設の福井県師範学校女子部に勤務したが,一年後には女子高等師範学校からの勧めで女高師の教官養成のための研究科に入学し,1909(明治42)年に修了して助教授に就任した。
その頃,講師として女高師に出講していた東京帝国大学教授の長井長義の強い勧めがあって,1913(大正2)年に日本の帝国大学で初めて女性に門戸を開いた東北帝国大学理科大学を受験する。その年の9月に日本初の帝国大学女子学生として,数学科に牧田らく,化学科に黒田チカと丹下うめの3名が入学した。
卒業研究では有機化学を専攻し,眞島利行教授の指導のもと,紫根の色素の構造研究を始めたことが生涯にわたる天然色素研究の端緒となった。1916(大正5)年7月に卒業して最初の女性理学士となった後,さらに東北帝国大学の副手として研究を続け,1918(大正7)年の夏にようやく結晶の構造を決定してシコニンと命名した。9月に東京に戻り,母校の女子高等師範学校の教授に就任した。11月の東京化学会で紫根の色素についての口頭発表を行い,日本初の女性の研究発表として話題となった。
1921(大正10)年に文部省から留学を命じられ,英国オックスフォード大学において理科の研究に併せて家事の研究を行うということで渡英した。この留学にあたっては,桜井錠二東京帝国大学教授からW. H. Perkin Jr教授宛に推薦状が書かれている。また,女性の場合は帰国後も一生独身で研究を続けるという不文律があったと伝えられている。
1923(大正12)年8月,米国経由で帰国し,9月1日の関東大震災は郷里の佐賀で知った。11月に上京し,女子高等師範学校で講義を行うとともに,理化学研究所の眞島研究室で紅花の色素の構造研究を始めている。1929(昭和4)年に紅花の色素カーサミンの構造決定に成功し,この研究により東北帝国大学から理学博士の学位を授与された。
その後は,身近な植物であるツユクサ,クロマメ,ナス,シソなどの色素の研究,日本産ウニの棘などの色素の研究を行っている。1936(昭和11)年には紅花の色素の構造研究において,日本化学会より第1回眞島賞を受賞した。
戦後の学制改革でお茶の水女子大学が発足して,1949(昭和24)年に同大学教授に就任し,この頃からタマネギの外皮の色素の研究を始めている。タマネギの外皮に含まれるケルセチンが血圧降下剤として働くことに気付き,その医薬品としての実用化,工業化を目指した。1953(昭和28)年に特許を取得し「ケルチンC」として市販された。
お茶の水女子大学に定年制が施行され,1952(昭和27)年に68歳で退官し名誉教授となった後も,非常勤講師として1963(昭和38)年まで週1回の有機化学特別講義を担当した。1952(昭和27)年には理化学研究所も定年となり嘱託となるが,その後も研究を続けた。1959(昭和34)年に紫綬褒章を,1965(昭和40)年には勲三等宝冠章を受章している。1968(昭和43)年11月8日に福岡市で逝去した。
<参考・引用文献>
- お茶の水女子大学ジェンダー研究センター,2000(平成12)年,黒田チカ資料目録
- 黒田光太郎,2018(平成30)年,科学研究費助成事業 研究成果報告書「研究課題名:黒田チカの生涯―最初の女子学生の教育,研究,人間,社会―」
- 福応会(福井大学教育学部・教育学研究科同窓会)誌,福師八十年回顧記念号,1951(昭和26)年,黒田チカ寄稿文「福井の思出」
4.表彰規定等
5.参考
黒田チカ博士の母校である東北大学,お茶の水女子大学,佐賀大学も黒田博士を称えた賞を設けています。